珈琲の香り

最近、喫茶店のマスターが言った「また来いよ」はその次「また来いよ、絶対。」になった。さらにその次はDVDを渡して「観たら返しに来てくれ」と言った。私の病状が悪いことにマスターは気づいているのかもしれない。死にたいと思ったことにも。もう死のうとなんて思うなよ。そういう風に頭の中で解釈された。

私は辛いとき、いつでも喫茶店に行く。辛くないときでも行く。喫茶店は、いつもそこにある。頼むのはいつも本日の珈琲と日替わりのケーキ。おかわりもしないのに何時間も長居する私に嫌な顔せず、むしろ早く帰る日にはマスターが「もう帰っちまうのか?」なんて言ってくれる。暖かい空間と、珈琲の香り。生きてる意味とか自分の価値とか考えてしまうこんな世界は殺したいほど憎いのに、涙が出るほど暖かい。

ラッキーカラーは青と緑。前回マスターの言った通りの色を身につけて、明日は必ず喫茶店にいく。まだDVD観てないのか!と叱られるかな。暖かい。大好きな場所。

文章は文字でしかなく、文字は文字でしかない。文字ではひとを動かせないかもしれない。だからこれはただのひとりごとだ。だけど私は、書かなければならないと思う。私にしか書けない言葉が、明日からも続いていく。

朝にはなれない

やっと文章を書く気力が湧いた。

今朝までわたしはあまりにも渦中で、くるしみに暴れ出しそうだった。柄にもなく煙草をふかしたり、天井を見たりして時間をやり過ごしたが、あまりのくるしみに赤の他人をここへ引き摺り込もうとさえ思った。引き摺り込んで、私と同じようにくるしめば私はひとりじゃなくなるんじゃないかと、そんな妄想をした。妄想でよかった。

この感情を歌詞や文章に昇華できたらとも考えたが、実体験をもとに〜などという所謂「レポ」とはかけ離れたグロテスクなものしか書けないだろうと思った。それでも良かったのかもしれないが、私はとことん誰のことも傷つけたくなかった。

そんな時、もう何年も愛しているバンドの新曲を聴いて、こんなのは私の曲だと思った。きっと万人にそう思わせる曲だろう、もう百回は聴いた。一曲リピートで。はじめはただ涙が止まらなかった。泣いたら夜の灯りが信じられないほど綺麗に映った。私だけの景色だった。そうしていたら今度は、文章を書かねばならないと直感した。「変わらないこと」をあれだけ望んでいた私が、自宅に帰るこの道を、当たり前に動くこの足を、初めてゆるせなく思った。そしてそのことを記録しなければならないと思った。私は誰がなんと言おうと文筆家だ。文章を書く。書き続ける。私が私である。痛いね、痛くていい。気持ちいい。この痛さごと喰らい尽くして、私の腹の中に住まわせよう。

情けない

絶望がやってきた。着替えもお風呂も歯磨きもままならない。心臓をぐっと掴まれてしまって横になるほかに何もできない。それでもお腹がすいたら近くにあるものを口に入れる、死にたいんじゃなかったのか。こんな姿になっても生きていようとする自分にうんざりする。人間のしぶとさに空しくなる。

夜が明けて朝になって、昼が来た。今日は病院に行かなくちゃいけない。もう薬が切れている。

具合が悪くなって、薬を飲んで、すこしやすんで、またがんばってみる。そして具合が悪くなる。それを毎日繰り返して生きて、ふとしたとき、涙がぼろぼろ止まらなくなる。誰に何をつたえたらいいのかもうわからない。たすけてほしいって、誰に。救われたいって、何から。いい加減にしてよ。

ひとなんて信じるんじゃなかった。そんな一言もここでは言いづらい。どこにいたって人がいる。見て見ぬふりして、横目で私を見ている。「誰も貴方を見てないよ」うそだ、都合のいいときだけ面白がるくせに。

曖昧に

事実を組み立ててできた家ってそんなに頑丈なものだろうか?事実に基づいた気持ちなどは、事実じゃなくてどちらかっていうと気持ちなのに、ひとは根拠とかそういうものにばかり目を向けたがる。確証がないと不安で仕方がないのなら、そう教えてほしかった。

私からすると精神科医のいうことも、占い師のいうことも、社会のルールや常識も、ぜんぶ同じくらい曖昧で、不確定な要素でしかない。きっと正しくないけど、そう思う。どれを信じたいか選別することには疲れてしまったけど、何も信じなくなるくらいならと思い、全部少しずつ信じるようにしている。

しかしたまに、矛盾が生じる。全部を信じているんだから、当然だ。こういうとき、私は親切だから「矛盾してるよー」と言いふらして回るのだが、誰も聞いてくれない。私含め、皆自分のことしか考えていない。

というかそもそも自分の身に起きていることの理解もできていない癖に考えすぎた。まずは身辺調査が必要です。警官がなんか言ってる。

わたしは健康と不健康を行ったり来たりしているようで、じつはずっと不健康です、みたいなことをやっているそうだ。医者が言ってた。でもすぐに良くなるらしい。神社のおみくじが言ってた。大事には至らないって。占い師も言ってた。わたしは、私はどう思っている?警官が身辺調査を行いましたが、自分に対する自分の感情だけは、発見されませんでした。

夜中に明るくて騒がしい街を歩くのは、安心したいからなのか。この中ではわたしはまだ正常だと確認したいのか。生きてさえいればそれでいいって、ハードルをまた一つ下げて、今度は仕事も辞めるのか。追い込み追い込み、やめようね。美味しいものでも食べに行こう。

たすけての四文字

たすけての四文字が送れない。

明日の朝は早いから、眠気覚ましに珈琲を買っていこうかな。そういう思考と並列して、たすけての四文字が頭をよぎる。でもこうも思う。他人にゆだねて、なにになる?

私はなんでも自分が背負うことで解決しようとする節があるらしい。言われてはじめて意識したがたしかにそうだ。自分だけじゃどうにもならないことがあると気づいてしまうのがおそろしい。

でも本当に、本質的には、なにもかも自分のせいだとも思う。愛し方もろくにわからないから、人のできないところだけを愛してしまった。私は間違いばかりだ。できるところもちゃんと愛してあげたかった。愛とは「守る」ことだと主張してきたが、自分だけの一人歩きだった。

最近は、色んなものに目移りしている。こうしていると時間を稼げるから良い。絵を描いたり、仕事をしたり、夜中に歌を歌ったり、毎日目まぐるしい。私はせっかちで、いつも生き急いでしまうから、このくらいがちょうど良い。

九月

またゲームセンターでお金を使ってしまった。ここのところ毎日通っている。やめなくちゃと思っているのにやめられない。淋しい。

最近の浪費は本当に深刻で、今月いくら使っているのかわからない。「日常生活力」の判定がかなり悪かった。回復する兆しが見えない。

私はちゃんと他人を愛すことができるし自己肯定感も持ち合わせているのに、いつからどうしてこうなったんだろう。ゲーセンに使うくらいなら何か買う方が後々売れるだけまだましだと、何度言ったらわかるんだ。わかんない。全然わかんないです。「援助があればできる」なんのだよ。誰のだよ。診断書にセルフでツッコミするしかなかった。

誰にでも中途半端に優しくするから傷つくし、傷つける。過去が恋しいなんてはじめてのことだがこれも自業自得だ。いまの私には実体がない。いつまでも浮遊している。もう戻れない。

悲観的になっても仕方がないので一旦ポジティブに考えてみよう。私は二十代前半で、若くて、環境にも恵まれ、そこそこにかわいい。なんだか文字が浮いてる気がするけど、多分そう。

だから仕事なんて辞めようと思った。私は、なんでもできるよ。なんでもできたのに。

主演

君には、いつか羽が生えるかもしれない。

行きつけの喫茶店のマスターは私にそう言った。客が少なくて暇だからと私の向かいに座って珈琲を飲んでいた。

私は喫茶店に行きたいときもあれば、行きたくないときもある。マスターに会いたいときもあれば、会いたくないときもある。マスターだって誰の顔も見たくないようなときがあるだろうに、毎日他人のために珈琲を淹れている。それってとても不平等だ。だから私たちは対価としてお金を支払っていて、マスターはそれを受け取ることを仕事にしている。利害で成り立っている。わたしは仕事とはなにかをかんがえる。自分には、こういう関係しかあとに残らないのだろうか。

ひと と わたし の間にはいったい何が発生しているのか?私が最近考えていることって全部ここに尽きるかもしれない。哲学的なこと考え出すと病むぞと母親に言われたけど、今更遅すぎる。考えなくなったら、それは私じゃない。

 

私は朝起きてまずがっかりする。頭が痛くて悪寒がする。次にそんな自分にがっかりする。手にべったりと血が付着したみたいな気分になる。そして、そんな自分の感性の豊かさに恍惚する。

マスターは、みんな普通が大好きなのに真ん中は少しずつ減っていて、いつか上か下かになる と言った。私は上にいたいとは思わなかったし、下でもいいとも思わないけど、羽はほしいと思った。私は誰だ。

一人で生きていくことができないのはなんでだろう。みんなの言う真ん中ってどこだったんだろう。ごろごろだけしてたら生きていけないのはなんでだろう。なんで、なんで?わたしは、なんで で出来ている。